好き、嫌い、それって本当?
人や物事、事象などに対して『好き』とか、『嫌い』という言葉で評価をする場合が良くあります。
好きな人、嫌いな人、好きなこと、嫌いなこと、好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな考え方、嫌いな考え方、色々あると思います。
普段感じているこういった好き嫌いという感覚を自身の内から出た本当の感情・価値観かどうか考えてみたことはありますか?
少し僕自身の昔話をさせて頂くと、
僕はサービス業に勤めていて1店舗の中でアルバイトスタッフさんを40名程雇っていました。
その時にアルバイトさんとふとした会話の流れで、
『好き嫌いの8~9割は思い込みか気のせいだと思うけど』
と、言っては皆から『そんなことないですよー!』と言われたものです。
僕自身はと言うと、『好き』と言える物も、『嫌い』と言う物も2~3個ずつしかありません。
好きな物はそれに接すると、心の奥底から喜びや感動的な感情が沸き上がってくるような物で、思い返すと本当に小さなころから好きだったものが2つ、成長の過程で好きになった物が1つです。
逆に嫌いだと言う物は大人になってから価値観的にどうしても受け入れたくない、受け入れるべきではないと思っているような、人の考え方や行動です。
(具体的に挙げると多少問題があるかもしれないので、具体的には挙げません)
そういう話をすると、
『じゃぁ、他の物事についてはどう思っているんですか?』
ということを聞かれることがありますが、大抵のものごとは好ましい、好ましくない程度の感覚はあったとしても、『どうでもいい・どちらでもない』という分類の中に入れています。
僕の話はそれくらいにして、一つ質問です。
あなたは虫が好きですか?嫌いですか?
虫の姿がはっきり分かっている状態の虫を食べられますか?食べられませんか?
昨今の日本人では過半数の人は虫は嫌いだと答えるでしょうし、虫は食べられない方が多いのではないでしょうか。
では、石器時代くらいを想像してみましょう、もしくは昆虫食文化があるところや文明から離れたところで原始的に近い生活をしているような民族の方でも良いです。
その方たちに同じ質問をした場合の結果はどうなるでしょう。
想像するに、虫は嫌いではなく、食べられると答える方が過半数を超える気がします。
では、この『好き』とか『嫌い』、はあなたの元来持っている感覚・感情なのか、文化や他者から植え付けられた感覚・感情なのかどちらでしょうか。
人間は社会の中で生きていく生き物である以上、その社会の中での文化や、特に子供の頃に関わっている他者からの影響を強く受け、価値観の形成がされていきます。
別にそれを悪いことだと言うつもりは全くありませんが、それをありのまま何も考えずにただ受け入れ続けると、『あなた』の価値観は『社会や他者』の価値観で埋め尽くされてしまいます。
そして、厄介なことに『好き』も『嫌い』も意識すれば意識するほど増幅していく場合が多いです。
だからこそ、僕は心の中でも物事に対して『好き』や『嫌い』という言葉を出来る限り使わずに、他の言葉を使うようにしています。
例えば、僕も虫は好きではありませんので近くをぶんぶん飛ばれればその時は『わずらわしいな』とか『うっとうしいな』と思いますが、継続した虫が嫌いという感情は持っていません。
人間は様々な判断をする上で、『好き嫌い』という感情を全く抜きにして判断をすることは意識してようがしていまいが難しいものだと思っています。
そして、判断の連続こそが人生です。
つまり、『好き嫌い』の価値観を『社会や他者』から植え付けられ、影響されたもので一杯の人の人生というものは、本当の意味での自分の人生を生きられずに、社会や他者に流された人生を送ることに他ならない気がします。
『でも、そんなこと言ったって好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いだし、どうにもならないよ』
そう思う方もいると思いますが、そんな方にお勧めなのは、何か一つでもいいから好きなものでも嫌いなものでも何でもいいので、『どうでもいいフォルダ』に入れてみることです。
これは意外に簡単に出来ます。
また、少し自分の話になりますが、僕がこの『好き嫌い』に対しての今のような価値観を持つようになった一番最初のきっかけは椎茸でした。
今でもはっきり覚えています、当時20歳の頃に一人暮らしを始め、自炊をしていた時に何となくですが、
『いつまでも嫌いな食べ物があるのはちょっと恥ずかしいよなー』
と思うようになったのです。
当時、普段食べる食べ物の中では椎茸がとにかく嫌いで、飲み込もうと思うと胃が受け付けずに胃の中の物が逆流してくるし、涙がにじみ出てくるくらい嫌いでした。
でも、何とか克服しようと思い、椎茸の上にツナマヨを乗せてグリルで焼いてみたりして、食べてみてもやっぱり激マズでとても食べられたものではなく、それでどうやって食べようかと考えた結果
『とにかく無心(嫌いなものを食べていると考えない)で、息を止め、ただ、咀嚼して飲み込むという動作のみを行う』
ということをしたところ、飲み込むことに成功をしましたが、後味で椎茸の香りが鼻を抜けていき、うっとしたものです。
ですが取りあえず飲み込むことには成功をしたのでそれ以降たまーーにですが椎茸を何かしら調理しては、『無心で息を止めて咀嚼して飲み込み、後味でうっとする』ということを繰り返していると、徐々に後味でうっとすることが無くなってきて、息を止めなくても飲み込むことが出来るようになりました。
そしていつしか『嫌い』という感情もなくなっていました。
はっきりとは覚えていませんが、2~3年の中で10回行かない程度食べた結果だったと思います。
そして、その時にすぐにそう思ったのかどうかまでは覚えていませんが、『嫌い』と思わず無心で食べれば胃が逆流したり涙が出る程の身体的反応は出ないことや、最終的に嫌いではなくなったことは、『慣れた結果』である。と結論付け、自分が嫌いだと思っていたものは、単にそれに『慣れていなかった』ということだと考えました。
そうして、嫌いな物を自己の意思で克服したことによって、折りに触れて
『好き嫌いって何だろう?』
と、考えることがあるようになり、今のような考えに最終的に至りました。
でも、いくつかの物はどう考え、無感情でいようと思っても、それに触れるたびに心の奥底から沸き出る感情がある物事があることにも気づき、これは僕が本来持っている『好きな物』、として今でも大切にしています。
人間関係や、自分の判断が好き嫌いという感情に振り回され、上手くいかないなぁと思っている方、
好き嫌いという感情も大小あり、ことによってはそう簡単に価値観を変えることが出来ないことも沢山ありますが、騙されたと思って、少しの好きや嫌いな物を自分の意志で『どうでもいいフォルダ』に入れてみましょう。
意外と自分が持っていた価値観ってそんなもんだったんだな、と思うと、深層心理で『無理』だと思っていたことが『可能』に変わり、凄く好きだったり、嫌いだと思っていたものも『どうでもいいフォルダ』に入れることが出来るようになります。
結果的に自分がこういう判断をしたい(つまりはこういう生き方をしたい、こういう人間でありたい)、と思う判断が自分ではどうにもならない感情に左右されることなく、徐々に出来るようになると思います。
僕は自分の人生の様々なことは出来る限り自分で決めたいと思っています。
それは中々に大変なことですが、『当たり前』や『常識』を疑い、自分の価値観すら疑い、
本当の自分の感情や感覚はどうなんだろう、どこにあるんだろう。
そんな風に自身の奥深くを見つめながら生きています。