lifepsychology’s diary

30代のおっさんが生きていく中で感じていることをただ書く

精神的な満足の為には欲の本質を探る

何かの瞬間瞬間ではなく、自分の人生(生活)を通して満たされている(満足している)と感じたり、幸せだと感じる人と、そうではない人の違いはどこにあるのか、僕の感じている違いの1つを書いてみます。

 

もちろん、様々な要因がありその人の人生に対しての感情は決まっていると思うので、何かこれ1つで、というようなものがあるとは思えませんが、自分でコントロール出来ることの1つに以下のことが挙げられると思います。

 

欲求の本質を正しく理解すること

 

どういうことか。

ここで1つ質問です。

 

・『幸せになりたい』という生物的な欲求があると思いますか?

 

僕は『ない』と思っています。

 

他にも例えば、『遊びたい(楽しい時間を過ごしたい)』『格好良く、可愛く(綺麗に)なりたい』等、これらの欲求も存在しないと思っています。

 

厳密に言うと、これらは『本質的な欲求を満たす為に、頭で考えて作り出した欲求である』と思っています。

 

例えばマズローの五段階欲求では、大まかに下記の5つの欲求に分類されております。

・生理的欲求

・安全欲求

・社会的欲求

・承認欲求

自己実現欲求

 

他にもブッダが唱えた欲求では下記の7つを挙げています。

 

人間の欲求が全て明確な形で解明されている訳ではないので、必ずしもどうこう、ということは言えませんが、例えば先ほどの例で言えば、

楽しみたい、という欲求はマズローで言えば主に社会的欲求に含まれていると予想出来ますし、ブッダの教えで言えば、歓楽欲に当てはまるでしょう。

『格好良く、可愛く(綺麗に)なりたい』という欲求は承認欲求が発端でしょう。

中には、『いや、自己満足の為だから』という人もいるかもしれませんが、

その場合は自己実現欲求に入るかもしれませんし、自分ではそう思っているだけで深層心理では承認欲求があったりするかもしれません。

 

例えば、今日は家から出る予定もなく家に自分一人しかいない、誰とも合う予定もない時ですらオシャレに決め込む人がいれば、それは確かに自己満足だと思います。

ですが、外に出る時しかオシャレにしないというのであれば承認欲求が隠れていることが想像できます。

 

上記のように、普段感じている『○○したい、○○になりたい』というような欲求は、そのこと自体が本質的な欲求な訳ではなく、それをすることによって、何か本質的な欲求を満たそうとしているのですね。

それを理解していないまま、自分の考える欲求を満たしたとしても、その時々や瞬間瞬間では満足をしたとしても、どこか満ち足りていないと感じたり、思ったほどの満足感が得られなかったりということに繋がってしまいます。

 

例えば思い切ってイメチェンしたりして自分では満足のいく仕上がりになったとして、

会った人から誰もそれについて言及されなかったり、ましてや否定的な意見を言われれば満足感は恐らく得られないですよね。

これは『○○になりたい』という表面上の自己の欲求が叶ったと感じたとしても、

誰かから褒めてもらいたい、認めてもらいたいという『承認欲求』は満たされないので、せっかく望んだ自分になれたのになんか満たされないな…となってしまう訳ですね。

 

生きていて、『幸せになりたいなぁ』とか、『なんか満たされないなぁ』と思うときは、自分がよく感じる欲求は何なのか、それは本質的にはどんな欲求なのかを考え、

その欲求が本当に自分の人生にとって有意義な物であるのかどうかを考えることが大切だと思います。

上に書いたマズローブッダの挙げた欲求というのは、ほとんどの人が当たり前に持っている欲求ですが、ありのままに感じ続け、欲し続けていても中々それらが満たされ続けることは難しいのが実際です。

であれば、この欲求は自分にとって凄く大切な欲求だと思えるものを実現可能そうな範囲で何個か選び、これらが満たされていれば満足である。というラインを自分で決めて価値観を作っていくことが必要です。

 

欲を知り、欲の取捨選択をすることで日々の生活の中で無駄な欲や方向違いな努力や頑張りを減らすことができ、結果的に自身が大切にしている欲を満たすことに時間や労力を注ぐことができるようになります。

 

そうすれば、必然的にその人の人生は満足度が高い物になっていくのではないでしょうか。

 

時に見たくない自身の裏側を見ることもありますが、普段の生活の中で何か物足り無さを感じている時や幸福感を感じられないときには普段『○○したい』と思っている欲求の裏側に隠れている本当の欲求は何だろう?と考えてみると、自分が本当は何をしたいのかが見えてくるかもしれません。

心穏やかに過ごすための1つの方法

心を穏やかに保つことって難しいですよね。

良い方にも悪い方にも心が振れ過ぎると疲れてしまう時があると思います。

 

若いうちはあまり気にならなくても、歳を重ねると

 

『もう少し穏やかな日々を過ごしたい。』

 

と思うようになる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

でも、現実には良い事も悪い事も様々なことがあるので心を穏やかに保つことは口で言う程簡単ではありません。

 

どうしたら心を出来るだけ穏やかに保ち、日々を平穏に暮らせるか、僕が実践している方法をご紹介します。

 

まず心が振れている時、というのは同時に何かしら感情がわいていると思います。

嬉しかったり、悲しかったり、腹立たしかったり、恋慕だったり、色々ありますよね。

 

逆に特別大きな感情わいていない時というのは心も穏やかでいられているはずです。

つまり、心を穏やかに保つためには、強い感情を持たないことが必要です。

 

そうはいっても、感情のコントロールというのはとても苦労するもので、完璧に制御しきれる人、というのはほぼいないのではと思っています。

 

例えば世の中には『アンガーマネジメント』や『仏教の教え』のような本で感情のコントロールをするための俗に言うハウツー本のようなものもあり、僕も何冊か読んだことはありますが、僕が読んだ限りではこれらの本は

『感情がわいたときにどう対処をするか』という所に重きが置かれていたように思います。

例えば、3秒間我慢する、とか、自身の体の音を聞く、とか、そういうことですね。

勿論それはそれで有用なのかもしれませんが、根本的対処にはなりません。

 

僕は25の頃から心を穏やかに保ちたいと思い、自身と向き合い、どうすれば感情のコントロールが出来るのかを考え実践をし、28くらいの頃にようやく自分がある程度納得できるくらいまでコントロールできるようになりました。

 

まず第一に考えたのは、なぜ感情が生まれるのか?です。

僕は学者や研究者、医者ではないので、あくまで僕自身がそう思っているだけのことですが、感情は必ず欲求と現実とのギャップから生まれると考えています。

欲求と現実のギャップが0に近ければ近いほどポジティブな感情が生まれ、

欲求と現実のギャップが大きければ大きいほどネガティブな感情が生まれます。

 

しかし、多くの人は潜在的な欲求、深層心理における欲求を理解していないことが多いです。

そしてその欲求と向き合っていないからこそ、自分の感情に振り回されるということが発生します。

 

何かあったときに、自分が感じたくない感情を感じてしまったときは、まずはこの感情は自分のどんな欲求から生まれたのかをよく考えてみましょう。

 

例えば、自身を実態以上に大きく見せたくなってしまったような時(凄いと思われたい、褒められたい)は『承認欲求』があるでしょうし、子供や部下が言ったことを守らなかったり、自身の希望に沿ったことが出来ずに腹が立つときは『支配欲求』があるでしょう。

 

どんな感情や欲求でもそうですが、それが単に悪いということではなく、

自分が何かの時に決まってこういう感情的反応が起こる。ということが分かっていて、

『どうにかしたい。』『苦痛だ。』ということであれば、そこに付随する欲求を見つめ、コントロールする以外には感情の制御はほぼ間違いなく出来ないと思います。

しかし、それが出来るようになると、他人からの評価を気にして変に見栄を張ったり、逆にビクビクしたり、他者との関わりの中で怒ったり、落ち込んだりすることが減り、周りに振り回されない自分の人生を生きることが出来るようになってきます。

 

そこに至るまではそう簡単ではありませんが、それをする価値は十分にある。と僕は思っています。

 

じゃぁ具体的に欲求のコントロールってどうするの?っていう話に関してはまた別の記事で書いてみようと思います。

期待という名の願望

人は自分や他人に対して『期待』を持つことがあります。

 

職場で言えば上司が部下に対して期待をする、とか。

家庭なら伴侶や子どもに対して期待をする、とか。

自分はこれくらいは出来るだろう、という自分に対しての期待もありますよね。

 

自分や他人に対して『期待をする』ということは決して悪いことではないと思います。

 

『私はあなたに何も期待していませんよ。』

 

なんて言われたら、その人との関係にはよるとは思いますが、悲しさや寂しさを感じるのではないでしょうか。

 

ただ、『期待』と『願望』の境界をしっかり意識して引いておかないと、往々にして不幸を招くと思っています。

 

以前の職場(サービス業)では店長同士の会話で度々アルバイトスタッフさんに対して、

『信用していたのに、期待して手をかけたのに、良くしてあげたのに裏切られた』

というような会話が出ることがありました。

 

その人との関係性はさておき、皆さんもこんな感情を持ったことが人生の中で1度や2度はあるのではないでしょうか。

信用していたり、期待をしていた人に裏切られると凄く悲しい気持ちになりますよね。

 

でもこの『期待』という感情を深く探ってみると、

『自分にとって都合の良い願望』が入り混じっていないでしょうか?

 

その人のことを深く知りもしないで、自分から見えている、知っている部分だけを評価し、また酷い場合では相手のことなんかお構い無しに

 

『こうあって欲しい』

 

という自分の願望の押し付けのことを『期待』と言い換えて聞こえの良いように言って、また自分の中でそう思い込んでいないでしょうか。

 

人間は必ず良い面、悪い面があり、時には自分自身に対してですら仮面をつけて、良い部分を見たがり、見せたがる生き物です。

 

自分の知らない、または見て見ぬふりをしている悪い部分や劣っている部分、

これらも含めて自分であり、他人であります。

 

『期待』は掛け捨てです。

期待をもって、相手に接することは悪いことではないかもしれませんが、

その通りにならないからと言って『裏切られた』というのは相手からしてみれば押し付けがましい以外の何物でもなく、自分自身も嫌な想いをするだけ損です。

 

期待をするのであれば、『ありのままを受け止める覚悟』が必要で、

『自分にとって都合の良い期待』のことは『期待』ではなく、『願望』です。

 

そう思って接していれば『裏切られた』と感じることなく、自身や他者と前向きに付き合っていくことが出来るのではないでしょうか。

 

自分も完璧じゃないですし、他人だって完璧じゃありません。

自分にとって当たり前なことも他人にとっては当たり前じゃないこともあり、

逆に他人にとって当たり前のことでも、自分にとっては当たり前じゃないことがあります。

基本的には良い人でも、時と場合によっては悪い人に感じることもあります。

本人にとってはどうしようもない状況や心身が過度に追い詰められたりした状態では、

普段と違う振る舞いをしてしまうこともあります。

 

だから、『願望』を押し付けることなく、正しく『期待』をしましょう。

『期待』とは、悪い部分も受け止め、それを共に改善し、成長していくことだと僕は思っています。

サッポロポテトつぶつぶベジタブルから考える、人間の認識力のお話

タイトル、なんだこれ(笑)

 

訳わかりませんね、ごめんなさい。

 

でもこれ僕の中学生の頃の実話なんです。

当時の僕はお菓子が大好きで毎日ぼりぼりお菓子を食べていて、

ある日タイトルにある『サッポロポテトつぶつぶベジタブル』のレギュラーサイズ(?)を食べていたんですね。

皆さんも食べたことあると思いますが、あれ結構な本数が入っているんですよね。

その時になぜそんなことをふと思ったのかは今でも全くもっての謎なんですが、

 

『袋の中身が減るのに気が付けるのはいつからだろう?』

 

と思ったんです。

 

袋を開け、1本食べても違いを認識できません。

2本、3本食べてもやっぱり違いが認識できません。

でも、どこかのタイミングで明らかに最初袋を開けた時よりも『減ったな』と認識できるようになります。

 

でも、そこを起点にもう1本食べてみてもやっぱり減ったかどうかは分かりません。

当時の中学生だった僕は、ぼりぼりと食べながら悩みに悩みました。

 

1本食べれば実際には間違いなく1本分減っています。

でも、1本減ったでしょ?って言われたってそんな違い分からないのです。

でも何本かはさておき、20本も無くなれば明らかに減ったことが分かります。

 

『どのタイミングで減ったのが認識できるようになるんだ?』

 

答えは出ないまま袋は空っぽに。

 

『うーーーん。まぁいいや。』

 

そこまで考え込むような大事なことでもなかったので、食べ終わればもう気にならなくなりました。

 

しかし・・・その後どれくらい期間が空いたのかは全く覚えていませんが、

また安売りしていたんでしょう。

あるんですよ、『サッポロポテトつぶつぶベジタブル』が。

 

以前そんなことを考えていたことはすっかり忘れていましたが、

袋を開け、食べ始めてしばらくすると、思い出して、また気になるんですね。

 

でも結局分からずじまいで食べ終わります。

 

3回目か、4回目か覚えていませんが、そこまでくると食べ始める前に気になっていたことを思い出して、袋を開けた瞬間からしっかり意識して入っている量を見ていました。

 

1本食べます。

うーーん、やっぱり分からん。

2本目を食べます

(以後繰り返し)

 

当時の僕は何を思ってそんな風に考えたのか、

これだけ何回も意識して気にしながら食べても違いが分からないのであれば、

 

『最初から5本か10本程度減らして売ったって気づかれないし利益になるんじゃないの?仮に2~3本だけ減らしたとしてもこれだけの販売量(実際何袋消費されているかなんて知らない)があれば、結構な差になるんじゃ…』

 

とか、思っていました。

今思えば、浅はかだなーと思いますが(笑)

 

そんなうちに歳もとればそんなことは考えなくなったいったんですが、

サービス業について仕事についてよく考えるようになった時に、まさかこの昔話を思い出して一つの結論に達するとは思ってもいませんでした。

 

サービス業というのは店舗の清掃は非常に大事なんですね。

僕がいた店舗は社員は僕一人だけで店長という立場で勤めていて、残りは総在席数30人程度のアルバイトさんがいました。

アルバイトさんたちに清掃の指導をする中で、やり方は教えるのですが、どうしてもみんな楽をしたがるし、手を抜いてもばれんやろの精神で『いついつはここを掃除しましょう』という店舗内のルールも僕の目が無いときはそれを実施しなかったり、非常に手抜き仕事になっていたりしました。

 

でも人間穴を掘って埋め戻すような、その物事に価値を感じないようなことってやる気が出なくて当たり前なんですよね。

汚れてもいないところを掃除したってなんの意味があるの?って思っても当然と言えば当然なんです。

僕自身、まだ店長になって1年目の頃で店舗管理に対する考え方も定まっていない頃、ということもあって汚れてもいない場所を一生懸命掃除しろと言われても正直それほどやる気は出ませんでした。

 

でも、だからと言って掃除をしなければ気が付くと『汚れているな』と思ったり、

手も空いてるし掃除でもするかー、と何気なく磨いてみると『えっ!こんなに汚れていたの!?』と思うことがあったんですね。

 

その時に、ふと思い出したんです、そう。

 

『サッポロポテトつぶつb(くどい)』を。

 

中学生の頃はなんか訳の分からない減らせば儲かるんじゃね?みたいな浅はかな考えにしか至れませんでしたが、その時は

 

『人間の認識できる程度はたかがしれている』

 

ということに気が付いたんです。

これは勿論個人差や、見る目が洗練されているかどうか、ということもありますが、

基本的にはたかがしれているんですね。

 

その時に仕事において僕の中での掃除をすることの本質は

 

『汚れている所を綺麗にすること』ではなく、『汚れないように綺麗な状態を保つこと

 

に変化しました。

まぁ、アルバイトスタッフさんにそれを理解してもらうことは当時の僕の指導力では無理だったんですけど…。

今は僕は農業という全く別の仕事をしていますが、今でも日々の植物の変化でもそうですし、日常生活の様々なことや、自分や他者に対してもそうですが、毎日、毎時、毎分、毎秒、物事は変化しているから、大事なことは特に

 

『よくよく意識していないと徐々に変わっていく変化にいつまでたっても気が付かないぞ。』

 

ということは肝に銘じて生きていたりします。

 

ちなみに似たようなことが昔から哲学の世界では取り上げられているらしく、

 

『砂山のパラドックス

 

という命題があります。

 

これは砂山の砂を1粒ずつ取り除いていったときに、どこまでが砂山でどこからが砂山ではなくなるのか、ということを考える命題です。

 

哲学者のような方が昔から考えているようなことを想起させてくれる

『サッポr()』は凄いなぁ!ただのお菓子とあなどれませんね。

皆さんも是非一度食べながら自分の認識力の限界を推し量ってみてはいかがでしょうか?(そんなことしないで普通に食べたいか。)

ペスキタリアンという食生活

ベジタリアン』という言葉は聞いたことがあると思いますが、

このベジタリアンにも種類があることはご存知ですか?

僕はペスキタリアンという分類の食生活を確か23歳の頃から27~9歳頃まで続けていました。

 

ベジタリアンの小ネタを少し。

 

動物質の物を一切食べない人の事を『ヴィーガン』と言います。

ヴィーガンは割と有名な言葉だと思うので、聞いたこともある方は多いかと思います。

ヴィーガンは日本語で言うと、完全菜食主義と表現され、

あたかもベジタリアン of ベジタリアンな印象がありますが、実はさらに厳格?なベジタリアンがいます。

それは『フルータリアン』と呼ばれる方達で、果物をはじめ、果実しか食べない人で、それを食べたとしてもその植物体自身が死ぬことが無い部分しか食べない人のことを差します。

『命を大事に』の極致ともいえる食生活をしている方ですね。

 

小ネタはこれくらいにして、僕の話に戻りますが、じゃぁ『ペスキタリアン』ってどんな食生活をする人なの?というと、

『赤肉を食べない人』です。

魚・乳製品・卵は食べますが、肉は食べない人、ですね。

 

今は厳格にぺスキタリアン生活をしていませんが、僕一人で食事をとる時は今でもその食生活を続けています。

例外として他人と食事をする際に、選択肢が他になければ肉も食べるようになりました。

例えば、他の方のご自宅で食事を頂く時や、外食でもメニューに肉を使ったメニューしかない場合やコース料理で出てくる時等、ですね。

上に27~29までぺスキタリアンだった、と書いたと思いますが、その間は他者との食事の場合でも絶対に肉は食べませんでしたし、肉を使った料理しかないことが分かっているお店には絶対に行きませんでした。

無駄に?厳格に守っていたので、例えば調味料としても鶏ガラや、コンソメ、ブイヨン、ポークエキスやビーフエキス等が入っているような物も食べませんでした。

そもそも当時は仕事が忙しかったのもありますし、そうそう誰かと食事をすることもほとんどありませんでしたが、どうしても付き合いで人と食事をする時でもそれを相手に伝えていたので、相手からすると非常に面倒臭い人間だっただろうなぁ、と今思えば申し訳なさも若干感じたりしているのですが...

それもあって、今は自分の主義の為に他者に気を遣わせたり、迷惑をかけたくないということで、他者と食事をする時は肉も食べますし、そもそも人に普段の食事で肉を食べないということ自体言わないようにしています。

 

さて、前話が長くなってしまいましたが、

当時『肉を食べない』という話をすると、『肉嫌いなんですか?』とよく聞かれましたが、僕は今でもそうですが、肉か野菜か、なら肉を食べた時の方が美味しいと感じます。

子供の頃はほぼ肉しか食べませんでしたし、ペスキタリアンになる直前まで肉を中心の食生活でした。

と、なると『なんかの宗教か?』と思うかもしれませんが、それも違います。

以前の記事で『好き、嫌い、それって本当?』という記事の中で僕の好きな物が3つある、と書きましたがそのうちの一つは『動物』です。

 

ここまで言えばわかりますね?

 

『動物を殺すのがかわいそうだから食べなくなったんだ』

 

実はそれも違います。

その前振りしておいて違うんかい!

 

という一人突っ込みはさておき、

本当の理由は『動物を自分の手で殺してまで食べたいと思わない』というのが正解です。

 

きっと、

 

『ん?動物を殺すのがかわいそうと何が違うんだ・・・?』

 

と思いますよね。

僕はたまにニュースになるようなヴィーガンの方とは違い、畜産・食肉文化の否定は一切していません。

ただ、自分が食べる為に牛や豚、鳥を自分の手で殺せるのか?と自問をした時に、

『それは無理だな。』と思い、そこには『殺すのがかわいそう』という感情は確かにあります。

ただ、現代社会では別に自分で殺して精肉をしなくても、スーパーに行けばお肉は簡単に手に入り、それを食べることが出来ます。

 

僕が食べることをやめたのは、

 

『自分が感情的な理由で出来ない仕事のサービスを受けることは嫌だ』

 

という想いが沸いたからです。

能力的に出来ない仕事は沢山あります。

でも、感情的に出来ない仕事は多くはありません。

その感情的に出来ない仕事を他の人にやらせて、自分はただそのサービスを受けるだけ、ということを職業倫理的に受け入れたくなかったんですね。

なので、魚は自分で〆て捌くことも出来るし、卵も自分で割って食べることが出来たのでそれは食べてもいいな、ということで肉を食べないぺスキタリアンが誕生したんですね。

(最終的に親鶏がどうなるとか、そういうことは話の趣旨から逸れるので置いておいて下さいね。)

 

実はこの話、先ほど出した以前の記事『好き、嫌い、それって本当?』の最後の締めで要約をすると、『自分の人生を歩むために常識や文化を疑う。』ということを書いたのですが、

僕にとってそのうちの大きな変化の1つがこの食生活の変更でした。

今まで何も考えずに食べていた肉を食べることが、自分にとって当たり前なのかどうか、自分はそれに対してどう感じるのか、ということを考え、結果的にペスキタリアンになるということをしました。

 

この2年後、食生活の変化、ということにおいてはペスキタリアンになったような理由とは全く別の理由でさらに自分を締め上げ、

修行僧も裸足で逃げ出すのでは?というくらい徹底的な『粗食生活』を始めるのですが、それはまた別のお話ということで。

好き、嫌い、それって本当?

人や物事、事象などに対して『好き』とか、『嫌い』という言葉で評価をする場合が良くあります。

 

好きな人、嫌いな人、好きなこと、嫌いなこと、好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな考え方、嫌いな考え方、色々あると思います。

 

普段感じているこういった好き嫌いという感覚を自身の内から出た本当の感情・価値観かどうか考えてみたことはありますか?

 

少し僕自身の昔話をさせて頂くと、

僕はサービス業に勤めていて1店舗の中でアルバイトスタッフさんを40名程雇っていました。

その時にアルバイトさんとふとした会話の流れで、

 

『好き嫌いの8~9割は思い込みか気のせいだと思うけど』

 

と、言っては皆から『そんなことないですよー!』と言われたものです。

 

僕自身はと言うと、『好き』と言える物も、『嫌い』と言う物も2~3個ずつしかありません。

好きな物はそれに接すると、心の奥底から喜びや感動的な感情が沸き上がってくるような物で、思い返すと本当に小さなころから好きだったものが2つ、成長の過程で好きになった物が1つです。

逆に嫌いだと言う物は大人になってから価値観的にどうしても受け入れたくない、受け入れるべきではないと思っているような、人の考え方や行動です。

(具体的に挙げると多少問題があるかもしれないので、具体的には挙げません)

 

そういう話をすると、

 

『じゃぁ、他の物事についてはどう思っているんですか?』

 

ということを聞かれることがありますが、大抵のものごとは好ましい、好ましくない程度の感覚はあったとしても、『どうでもいい・どちらでもない』という分類の中に入れています。

 

僕の話はそれくらいにして、一つ質問です。

 

あなたは虫が好きですか?嫌いですか?

虫の姿がはっきり分かっている状態の虫を食べられますか?食べられませんか?

 

昨今の日本人では過半数の人は虫は嫌いだと答えるでしょうし、虫は食べられない方が多いのではないでしょうか。

では、石器時代くらいを想像してみましょう、もしくは昆虫食文化があるところや文明から離れたところで原始的に近い生活をしているような民族の方でも良いです。

 

その方たちに同じ質問をした場合の結果はどうなるでしょう。

想像するに、虫は嫌いではなく、食べられると答える方が過半数を超える気がします。

 

では、この『好き』とか『嫌い』、はあなたの元来持っている感覚・感情なのか、文化や他者から植え付けられた感覚・感情なのかどちらでしょうか。

人間は社会の中で生きていく生き物である以上、その社会の中での文化や、特に子供の頃に関わっている他者からの影響を強く受け、価値観の形成がされていきます。

別にそれを悪いことだと言うつもりは全くありませんが、それをありのまま何も考えずにただ受け入れ続けると、『あなた』の価値観は『社会や他者』の価値観で埋め尽くされてしまいます。

そして、厄介なことに『好き』も『嫌い』も意識すれば意識するほど増幅していく場合が多いです。

だからこそ、僕は心の中でも物事に対して『好き』や『嫌い』という言葉を出来る限り使わずに、他の言葉を使うようにしています。

 

例えば、僕も虫は好きではありませんので近くをぶんぶん飛ばれればその時は『わずらわしいな』とか『うっとうしいな』と思いますが、継続した虫が嫌いという感情は持っていません。

 

人間は様々な判断をする上で、『好き嫌い』という感情を全く抜きにして判断をすることは意識してようがしていまいが難しいものだと思っています。

そして、判断の連続こそが人生です。

つまり、『好き嫌い』の価値観を『社会や他者』から植え付けられ、影響されたもので一杯の人の人生というものは、本当の意味での自分の人生を生きられずに、社会や他者に流された人生を送ることに他ならない気がします。

 

『でも、そんなこと言ったって好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いだし、どうにもならないよ』

 

そう思う方もいると思いますが、そんな方にお勧めなのは、何か一つでもいいから好きなものでも嫌いなものでも何でもいいので、『どうでもいいフォルダ』に入れてみることです。

これは意外に簡単に出来ます。

 

また、少し自分の話になりますが、僕がこの『好き嫌い』に対しての今のような価値観を持つようになった一番最初のきっかけは椎茸でした。

今でもはっきり覚えています、当時20歳の頃に一人暮らしを始め、自炊をしていた時に何となくですが、

 

『いつまでも嫌いな食べ物があるのはちょっと恥ずかしいよなー』

 

と思うようになったのです。

当時、普段食べる食べ物の中では椎茸がとにかく嫌いで、飲み込もうと思うと胃が受け付けずに胃の中の物が逆流してくるし、涙がにじみ出てくるくらい嫌いでした。

 

でも、何とか克服しようと思い、椎茸の上にツナマヨを乗せてグリルで焼いてみたりして、食べてみてもやっぱり激マズでとても食べられたものではなく、それでどうやって食べようかと考えた結果

 

『とにかく無心(嫌いなものを食べていると考えない)で、息を止め、ただ、咀嚼して飲み込むという動作のみを行う』

 

ということをしたところ、飲み込むことに成功をしましたが、後味で椎茸の香りが鼻を抜けていき、うっとしたものです。

ですが取りあえず飲み込むことには成功をしたのでそれ以降たまーーにですが椎茸を何かしら調理しては、『無心で息を止めて咀嚼して飲み込み、後味でうっとする』ということを繰り返していると、徐々に後味でうっとすることが無くなってきて、息を止めなくても飲み込むことが出来るようになりました。

そしていつしか『嫌い』という感情もなくなっていました。

はっきりとは覚えていませんが、2~3年の中で10回行かない程度食べた結果だったと思います。

 

そして、その時にすぐにそう思ったのかどうかまでは覚えていませんが、『嫌い』と思わず無心で食べれば胃が逆流したり涙が出る程の身体的反応は出ないことや、最終的に嫌いではなくなったことは、『慣れた結果』である。と結論付け、自分が嫌いだと思っていたものは、単にそれに『慣れていなかった』ということだと考えました。

そうして、嫌いな物を自己の意思で克服したことによって、折りに触れて

 

『好き嫌いって何だろう?』

 

と、考えることがあるようになり、今のような考えに最終的に至りました。

でも、いくつかの物はどう考え、無感情でいようと思っても、それに触れるたびに心の奥底から沸き出る感情がある物事があることにも気づき、これは僕が本来持っている『好きな物』、として今でも大切にしています。

 

人間関係や、自分の判断が好き嫌いという感情に振り回され、上手くいかないなぁと思っている方、

好き嫌いという感情も大小あり、ことによってはそう簡単に価値観を変えることが出来ないことも沢山ありますが、騙されたと思って、少しの好きや嫌いな物を自分の意志で『どうでもいいフォルダ』に入れてみましょう。

意外と自分が持っていた価値観ってそんなもんだったんだな、と思うと、深層心理で『無理』だと思っていたことが『可能』に変わり、凄く好きだったり、嫌いだと思っていたものも『どうでもいいフォルダ』に入れることが出来るようになります。

結果的に自分がこういう判断をしたい(つまりはこういう生き方をしたい、こういう人間でありたい)、と思う判断が自分ではどうにもならない感情に左右されることなく、徐々に出来るようになると思います。

 

僕は自分の人生の様々なことは出来る限り自分で決めたいと思っています。

それは中々に大変なことですが、『当たり前』や『常識』を疑い、自分の価値観すら疑い、

 

本当の自分の感情や感覚はどうなんだろう、どこにあるんだろう。

 

そんな風に自身の奥深くを見つめながら生きています。

スキゾイドという人間が出来るまで

スキゾイド(シゾイド)』という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

パーソナリティ障害の一種で、人との関わりをあまり求めていない人を差します。

 

そも、パーソナリティ障害とは、昔は人格障害と呼ばれており、その人の性格や考え方の著しい偏りにより、本人や他者に苦痛を与えたり、日常生活に支障を起こすようなパーソナリティ(人間性・人格)の総称のことで下記の分類に分けられています。

 

・境界性

・自己愛性

・反社会性

・回避性

・演技性

・猜疑性(妄想性)

・統合失調型

スキゾイド(シゾイド)

 

上記のどれかに当てはまるかどうかは診断米国精神医学会の診断基準になっている、「DSM-5」という診断・統計マニュアルで診断をすることが出来ます。

 

最初に書いた通り、僕はスキゾイドパーソナリティ障害というものに当てはまっており、本心から人付き合いを望むことがほぼありません。

しかし本心はどうであれ、社会で生きていく上で最低限必要なコミュニケーションスキルや、必要な関わりは普通に持つことが出来ます。

ただ、深く心を通じ合わせたり、生きていく上で必要でもないのに誰かと交流を持ちたいとは思いませんし、そういうプライベート色の強い関わりを長く安定して続けていくようなコミュニケーション能力は持っていません。

ですので、『友達』という付き合いは中学生以降したことがありませんし、今でも友達はいません。

ですが、それを『寂しい』と思ったり、『友達が欲しい』と思うこともありません。

ただ、ここらの感覚や考え方は同じスキゾイドの方でも人により個人差があるのではと思っています。

 

僕がなぜ、いつからスキゾイドになったのかと自問をしてみると、生まれつきではなく、後天的に形成された性質だと思っています。

なぜなら中学生までは友達付き合いがあった(つまり友達を欲していた)からです。

しかし、中学になってから新しい友達が出来たことはなく、小学校の頃仲が良かった友達と付き合いがあった程度ではあり、その頃にはスキゾイド質が徐々に芽生えていたことが伺えます。

思うに、元々HSP(ハイリーセンシティブパーソン)の性質(詳しく書くと長くなり過ぎるので端折ります)を先天的に持っていた所に小学生の中高学年頃から親同士の仲が非常に悪くなり、特に母親からは毎日それこそ呪詛のように父親に対する悪口を聞かされたのがトリガーとなってスキゾイドが徐々に形成されたのだと考えています。

 

小学生の頃と言えば、一般的には一番信頼・安心できる人間は親であることが多いと思いますが、その頃に一方の親から一方の親の悪口をずっと聞かされたことにより両親に対する信頼や安心感が壊されたことにより、人間不信に陥り、最終的に自身の心を安定させる為にそもそも人間関係を欲しないようにスキゾイド質が形成された、という流れだろうと考えています。

 

今はスキゾイドとの付き合い方もずいぶんと慣れてきて、勿論様々な考え方の矯正や価値観の作り替えを継続し続けた結果ではありますが、徐々に克服しつつある気がします。